こんにちは!ブランディング企画室です。
このブログを書いているのは5月中旬。
新型コロナウイルスによる緊急事態宣言が、少しずつ解除されてきました。
この様な事態になる以前から、自宅やカフェで仕事を行う事が何度かあったのですが
完全在宅勤務として、こんなに長い間自宅に籠ったのは初めての経験!
足腰の衰えが半端なく、もはや日常の通勤に耐えられるか否か・・・。
己の運動不足を今更ながらに痛感しています。
同僚に教えてもらった筋トレ動画を観て、正しいスクワットをマスターしなくては。
動け!自分!頑張れ!!自分!!筋肉はいくつになっても鍛えられるぞ!!!
・・・・・・・・・。
ハイッ・・・と、言う事で。
今週もブラ旅番外編、スタートです!
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★ブラ旅47とは…
大和グラビヤのブランディング企画室が日本全国47都道府県の旅に出る企画、
略して「ブラ旅47」!
全国各地の食べ物やお土産や工芸品・・・それらを作っている人たちとの出会いや、
その体験で感じたことや得たものを旅の記録として綴っています。
★ブラ旅47番外編とは…3つのポイント!
①新型コロナウイルスの影響で、ブラ旅を一旦休止します。(2020年7月末までの予定)
②休止の間、「ブラ旅47番外編」として、大和グラビヤの歴史を紐解く企画を実施します。
③こんな状況だからこそ、出来る範囲で目いっぱい楽しいことをします!
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弊社 大和グラビヤの歴史と併せて、縁のある土地やモノについてお届けしている「ブラ旅番外編」。
まずは先週までを軽くおさらい!
1.紙とセロハンと大和グラビヤ その後
~ おさらい始め ~
岐阜県美濃市蕨生(わらび)出身である創業者 鈴木松二郎は、
駄菓子製造が盛んだった名古屋に「美濃紙共栄」を創業。
ロウ引き紙や菓子箱の製造で成長していきます。
1954年には「金松産業(株)」を共同設立し、キャラメル箱やキャラメル包み紙、食パン包装等を中心に
製造するようになりました。
そして1957年。名古屋市北区七夕町に「大和グラビヤ(株)」が設立。
急成長していく時代と共に進化していったパッケージ。
弊社も駄菓子やラーメンスープの包装材等、様々な形態・機能の製造にトライしていきました。
~ おさらい終わり ~
弊社が設立された1957年というと・・・昭和32年!
初めて百円硬貨や5,000円紙幣が発行されており、戦後から経済的に発展し始めた年である事がわかります。
高度経済成長期の熱や勢いと共にガンガン成長していった大和グラビヤ!・・・ ですが・・・
昭和40年代後半に入ると多くの産業の需要が減少し、弊社の勢いにも陰りが見えてきました。
ちょうど「オイルショック」という大きなインパクトがあった時代に突入していったのです。
そんな中、弊社の基盤を作り上げた創業者である鈴木松二郎が亡くなります。
決して良い状況では無いタイミングで社長に就任したのは、弊社現会長でした。
2.欲しい時に買う時代へ
オイルショックの激震と様々な産業の需要減少という、弊社にとっては厳しい時代だった昭和40年代後半。
既に日本は20年近く続いた高度経済成長期により、大きくライフスタイルが変化していました。
この辺り(昭和40年代)までは、色々な物が凄いスピードで進化していっています。
さすが高度経済成長期!凄まじいです!
便利な家電製品がバンバン各家庭に普及・発達し、食文化も大きく変わっていきました。
人々の意識と生活様式の変化に伴い、物流も発達。
こうして、包装資材の主役はセロハン・紙からプラスチックフィルムへと変化していったのです。
いつでも欲しい時に、買う事ができる。
日々忙しく働いている人々の生活を支える為、包装に求められる事が増えていきます。
何よりも大切な事は、中身の商品を劣化させる事なく、より安全に消費者の手元に届ける事。
安心と安全を求め、プラスチックフィルムの機能はドンドン向上していきました。
弊社も1974年にタンデムラミネート機(タンデムラミネート機とは=プラスチック樹脂を熱で溶かして
フィルム状にしたものを、ベースとなるフィルムに貼り合わせる工程で使用される機械の一つ)を導入!
2代目社長となった現会長は、当時製造が難しいと言われていた漬物や味噌、
こんにゃく等、それまで加工した事がなかった軟包装資材に挑戦していきました。
そうして、実践で加工技術を磨く事により
質の良い軟包装資材(プラスチックフィルムを使用したパッケージ)を提供できるようになっていったのです。
3.大和グラビヤと味噌
昭和40年代後半、様々な包装にトライしていた弊社ですが
その中でも、今回は日本人のソウルフード「味噌」に着目してみました。
そもそも、少量品の流通が現在のような形になる以前は、どんな状態で手に入れていたのでしょうか。
このブログを書いている自分も結構な年齢(悲)ですが・・・スーパーで普通に購入していた記憶しかありません。
様々な味噌メーカー様のホームページで、味噌について調べてみました。
どうも昭和30年代辺りは、味噌や漬物をそれぞれの家庭で自分達が食べる分だけ作り、消費していたそうです。
だから、味噌って土地によって内容や味が違うんですね。
1974年より前の味噌の購入事情(?)について自分の母親(60代)に聞いてみたところ
「一番古い記憶だと・・・確かお味噌は酒屋さんに使う分だけ買いに行っていた。」との事。
母親が幼かった頃、味噌や醤油等は量り売りだったらしく、少量ずつ購入しては使い切っていたようです。
・・・?
ここまで聞いて、少し疑問が出てきました。
その当時、現在の様なプラスチックフィルムの包装は無かった訳ですが
購入した味噌を「何」で包んで持ち帰ったのか・・・。
うーむ・・・ ナゾです。
と、言う事で。
次回は、身内にヒアリングした内容を元に再現した「プラスチックフィルムが一般的になる以前の包装」から
ご家庭ではお馴染みの「現在の包装」までをお伝えします。
ヒアリングした内容を元に再現を試みたのですが・・・ 想像以上に不思議な仕上がりになってしまいました。
次回の更新は6月5日です。皆さま、お楽しみに!
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